昭和の想い出
1回生 川上 龍美
私が入学したのは、戦後間もない昭和28年(1953年)です。
近所の同年代の子供たちと馴染めなかった私は、区立小学校へ進むのが嫌でした。
面接の日は大雪。両親とダルマストーブを囲んで暖を取りながら面接の時を待っていたのを思い出します。私が、最後に決まった生徒でした。
創立したばかりの学校は、1学年、2クラス。卒業するまでずっと最上級生で少し得した気分でした。
担任は、大学出たての巳波瑠美先生。その他、市川先生、高橋先生、永井先生(美術)など数人の先生方がいらっしゃるだけでした。
制服のスタイルは、現在と同じですが、女子のベレー帽、男子の帽子の房は白色でした。
配布物は、ガリ版刷りで手作り感満載。
午前中にオヤツが出たので、びっくりするやら嬉しいやら。人見先生(当時は、主事先生と呼んでいました)が朝搾った山羊のミルクとビスケット。戦後7年しか経っていない物不足の時代では贅沢な事でした。
30周年の祝辞に「一頭の山羊のお乳を皆で分け、ビスケットと共におやつに飲んだ」と話したら、「馬鹿者。山羊一頭では、皆が飲めない。もっと沢山いた。尤も一頭の山羊と言った方が話としては面白い。」と笑われました。
山羊の他にも鳥や人見先生が飼われていたコリー犬も数頭走り廻り、長閑な情景が広がっていました。コリー犬と言えばグラウンドでコリーの品評会が開催され、皇太子時代の上皇様と上皇后様がいらっしゃいました。人見先生も嬉しそうでした。
授業が終わったら、ダッシュで帰宅、自転車で再び学校へトンボ返りして同級生と遊ぶ余裕もありました。
当時は給食はなく、弁当持参でした。母は、大がつく料理下手なので毎日のように卵焼きと焼いた塩鮭に焼海苔がしいてあるだけ。どれも、今でも好物ですが、綺麗で可愛らしいキャラ弁とは比べようもない色気のない弁当でした。飽きもせず毎日よく食べたものです。まあ、お腹いっぱい食べられれば、満足でしたから。
ダルマストーブの燃料の石炭は、当番の生徒が、校舎のはずれにある石炭置き場から運んできます。火が勢いよく燃えるまで煙いこと、煙いこと。帰りには、やはり当番が、石炭ガラを運動場の隅にあったガラ捨て場に運ばなければなりません。燃えているストーブの周囲を棚がついた金物で囲い、そこにアルマイトの弁当箱を置き温めました。ところが、様々な食品の混合。結果、何とも形容し難い様々な匂いが充満し、閉口しました。
15m幅くらいのプール左手に平屋建ての給食室が出来ました。初めは、粉末ジュースを水で溶いた飲み物。今ならば、添加物がどうのと言われそうです。6年生の6月から本格的な給食が始まりました。主食は、各自持参。
男子生徒は、食べ盛り。一杯目をさっさと平らげ、先を争って、おかわりに並びました。母の弁当とは、全くもって比べ物にならないくらい美味しかった。ハムカツが気に入り、母に作って欲しいと言いました。すると、私だってそのくらい作れると怒られました。今でも、思い出すメニューです。モリモリ食べて、そのお陰か6年生のときには身長が10㎝も伸びました。
一年生入学の頃、父母会(6人の父親)と主事先生は、よく話し合いの場を持っていました。多少の考え方の相違はありましたが目指す方向と思いは同じで、何とかして初等部の子供達にひとつでも多くの体験・経験と知識を与えようという思いで必死でした。時には、論争が過熱したこともあったようです。母親達も行事などで会う機会が多かった為か、兄弟姉妹を含め、皆顔見知りでした。
中学進学後、2回生の増田先生のクラスの集まりに呼ばれるようになり、仲良く楽しく騒いでいました。先生のお宅に伺ったり、泊まりがけで尾瀬にも行きました。年老いた今もお付き合いしていただける事が、大変喜ばしく、ありがたいです。昭和の初等部に入学していなかったらこのような機会に恵まれる事は、なかったでしょう。
遠足は、親同伴です。1年生は、井の頭公園。2年生は、向ヶ丘遊園のような気がするけれど確かではありません。3年生は、ユネスコ村。4年生の鎌倉・江ノ島からは、生徒だけで。6年生では、建設中の小河内ダムへも行きました。
運動会は、砧公園や多摩川台公園。徒競走で1位、2位、3位と順位を付けた父母会は、人見楠郎主事先生から「子供に順位をつけないように。皆、頑張ったから。」と言われました。その言葉に驚いたのか、家内の母親は、お財布をなくしました。
いつも楽しみにしていた幻燈会。16ミリでも撮っていたので、フィルムが現存しているならば、是非また観たいです。
船で行った、当時は島だった、お台場。
人見先生がボロ市で買ってきた臼と杵を使っての餅つき大会。副田先生が、杵を上段に構え正に振り下ろそうとしている写真を見付けました。
クリスマス会や学芸会(劇や歌作り。楠が枯れそうで助けようとする話)、農大での芋掘り、二子玉川の浄水場。
稲刈りや脱穀機の見学は、現在では、想像もできないような場所。私の家から程近い、246、駒沢交差点辺りにあった同級生の家です。初めて脱穀機から籾殻が出てくるのを見て、お米を食べられる事は、幸せな事、一粒たりとも残してはいけないという先生の言葉がわかったような気がしました。
臨海学校の始まりは、一年生の時竹芝桟橋から橘丸で行った(館山下船)千葉の勝山。まだ、汽車での移動が難しい世相だったのでしょう。
現在では、考えられないでしょうが、一家総出の臨海学校。
家内などは、両親に弟も。私は、両親が忙しく下宿人の東大生が保護者でした。私は、心細さと保護者のお兄さんを見失ったので、泣いたそうです。出航時には、別れのテープ。寂しさが募ると思いませんか?一年生ですから。
ただ一人の男子生徒だった私は、昼間職員室になっていた大広間で男性教師、お兄さん、そして人見先生と同室でした。人見先生と相部屋で寝たのは、私一人かもしれません。
大広間は、昼間、教室にもなりました。母親達は、熱心に誰彼となく面倒を見てくれました。が、父親達は何をしていたんでしょうか?皆を楽しませる為に出し物の準備?昼は、泳いだり、スイカ割りをしたり。夜は、幻燈会や演芸大会もありました。父親達がお腹に顔を描いて面白可笑しく踊りました。あとで、人見先生に注意されたかもしれません。それとも、呆れていたのか?
2年生の時は、保田があったと思いますが、参加していません。
4年生、5年生からは、那古船形になり、波の音が聞こえる大和屋旅館になりました。
この時も、橘丸で館山港に降り立ち、桟橋の板の隙間から落ちやしないかと不安でした。
林間学校は、日光でした。男子は、太郎山へ。登山口までトラックの荷台に乗って行きました。登山中も人見先生は大きなカメラを担いで撮影していました。学校行事で残っているフィルムがあれば、先生ご自身が撮影されたものと思います。写真は、南さん。いつもお世話になっている写真スタジオの南さんのお父様です。モーターボートにも乗りました。
男子生徒に、家庭科と保健の授業はなく、その間、体育でした。運動好きの私にとっては、楽しい時間。現代なら、差別です。しかし、受験科目に家庭科があり、「雑巾を縫う糸の太さを選ぶ」という問題では、物の見事に間違えました。
在校中、一番驚いた出来事が幼稚園校舎以外全てを失った火事です。我が家から(深沢)夜空が真っ赤に燃えているのが見えました。家内の家(港区)では白金の東京大学伝染病研究所が燃えていると思ったそうです。現在のように即テレビ中継されるような情報手段もなかった頃です。まさか自分の学校が燃えていて戦後最大の火災と報じられるほど凄かったとは想像もできなかったです。人見先生は、火事場の何とやらで、一人でピアノを運び出したと聞きました。
授業は、2クラス合同。幼稚部校舎で再開されました。私は、先生方が落ちついて指導して下さったので、何の不安も覚えませんでした。2年生の担任の牧野先生は、ご自分のオルガンを寄付してくださいました。復興再建の為、父母会は、人見先生と会議を重ねていました。先生は父母に余分な負担をかけたくないと思い、父母会は、できる限りの協力をしたいという気持ち。お互い譲らず鬩ぎ合い。父母の中で一番若く血気盛んだった私の父は、「人見先生は、意地の張りすぎだ。」と怒って帰ってきてしまいました。だいぶ年月が経った頃、何度か会う機会があり、お互い大人の対応をし、和やかに話すことができました。再建会議の時は、両者とも相手を思いやっての善かれという想いの行動だったのだと思います。後日、家内の父親に人見先生から手紙が届き、「火事の時、父母から寄付金を受け取った事が悔やまれる…」と書かれていたそうです。40周年のお祝いがホテルニューオータニで開かれた時も家内の母親(亡くなっていた父の代わり)に仰ったそうです。「後にも先にも父母からお金をもらったのは、火事の時だけだ。」生徒の両親に負担をかけたことは人見先生にとって余程口惜しかったのでしょう。
人見楠郎先生の忘れられない想い出を綴りたいと思います。
背が高かった私は、机の下に膝が入らなくなり困っていました。すると、先生からメモが来ました。
「君は誰にえんりょすることもなく ずんずん せいがのびますね。
それでよいのです。どんどん大きくなりなさい。そしてまた勉強のことも
誰にもえんりょ しないで どんどんはげんで下さい。あたまも 大きく
なりますから。机が小さくなったら□川上君□一人のためにも□大きいのを作って
あげますから□安心していらっしゃい」
原文
お陰で大きな机を使う事ができました。このメモは今も保管しています。
ランドセルにも困りました。既製品では、腕が入らなくなり、母が肩掛け鞄の使用申請をしました。しかし、ランドセルにこだわりがあったのか頑固なのかは不明ですが、先生からは、許可という返事は頂けませんでした。仕方なく特注。物資不足の為、黒色の皮が手に入らず茶色。身長160センチ超えの半ズボンを履いたギョロ目の男子。黒のランドセルの中の唯一の茶色。ちょっと、恥ずかしかった。この茶色のランドセルは、下級生に譲りました。大きくなって困っていた生徒は、他にも居たんですね。役に立って良かったです。
6年生になり、叩き起こされなければ起きられない寝坊助の私も朝の算数小テストの為、頑張って早く登校しました。人生で一番勉強した時期です。“しょうわ9号”に「進学状況」という記述があります。「進学」という言葉は、「合格」だと思います。分身の術でも使わない限り、2校同時に登校する事は、無理です。
卒業式は、隙間風が吹き抜ける木造モルタルの講堂でした。初等部最初の卒業式でしたので、誰もが感激し、泣いていて、泣き虫の私もついつられて泣きました。
元兵舎だった場所を取得し、昭和をその確固たる信念と、リーダーシップで発展させた人見先生。戦後の混乱期に、おやつに始まり、盛り沢山の経験を積む機会を与えてくださいました事、有り難く感謝しています。沢山の先生方も親身に見守ってくださいました。私個人としては、故副田悦子先生、故増田敬先生、ご健在の有賀三奈子先生、お三方には、社会人になってからも親しくお付き合いいただきました。心から感謝申し上げます。